【佐賀商業男子バレーボール部】「小学校から共に戦ってきた仲間と目指す全国」第2弾
1931(昭和6)年に創部された佐賀商業高校男子バレーボール部。全国大会出場回数は県内最多回数を誇るバレーボールの強豪を引っ張る4人の選手がいます。
嬉野市出身の川原選手、竹下選手、宮崎選手、中島選手。小学校からバレーボールをはじめ、同じ夢を持って佐賀商業高校に入学し、寮で生活を共にしながら努力を重ねる4選手。
本特集では、4人の出会いから現在に至るまでを取材しました。
左から宮崎選手、中島選手、川原選手、竹下選手
バレーボール部が無い
確実に成長し、頭角を表しはじめた嬉野男子JVCだったが、小学校を卒業し中学へと進学すると、そこには男子バレーボール部が無い。嬉野男子JVCを立ち上げた時点で川原選手の父、川原良太さんは覚悟を決めていたといいます。バレーボール経験者に声をかけ、嬉野ホットスプリングスVBCを発足。この時に中島選手が加入し、その父である中島隆二さんが監督を務めることとなりました。
中学1、2年生はほとんど勝てなかった。
取材時「中学1、2年生はほとんど勝てなかった。」と竹下選手が話すと、他3人も深く頷く。
中学に進学するに合わせてクラブチームを発足したため、メンバーの中心は中学1年生。1つ上、2つ上の上級生チームに立ち向かわなければならなかった。さらに、クラブはネット高が高校生やオリンピックと同じ2.43m。小学生の頃と同じように勝てない期間が続いた。
当時を振り返る竹下選手
やっと掴んだ中体連出場
県内に8つほどのクラブチームを相手にしのぎを削っていた嬉野ホットスプリングスVBC。小学校時代に同じ県選抜だったメンバーは、各中学校の部活動に参加しながら、クラブにも所属していた。
他の選手が出場している大会に自分達は出れない。その現状を変えるために行ったことは「地域に認められること」。嬉野花火大会の翌日、早朝からゴミ拾いを行ったり、使用している体育館の掃除は欠かさなかった。
そんな行動が周囲から認められ、中学3年生、最初で最後の中体連に出場することとなった。
1セットも落とさずに完全優勝
初めての中体連。クラブの高いネットで培った攻撃力が爆発した。準決勝では、試合開始直後に6得点され、6-0とされたものの、1セットも落とさずに完全優勝。小学生の頃に届かなかった九州大会出場を決めた。
現在、佐賀商男子バレーボール部主将の竹下選手は、「今まで大会に参加していなかった分、自分達はダークホースだと思って臨みました。会場も嬉野だったし、気持ちが入っていた。優勝した時は嬉しかったです。」と当時を振り返った。
最初で最後の中体連で躍動する選手たち
完全優勝を決めた嬉野中
九州中体連…また、惜しくも
そして臨んだ九州の舞台。この大会の5位までが全国中体連への出場権を得られる。
予選グループで熊本県2位の岱明中を2-0で下し、決勝トーナメントへ進出。シードを獲得していた嬉野中はベスト4をかけて、鹿児島県2位の朝日・田検中と対戦。デュースの末に第1セットを落とし、第2セットも奪うことができなかった。
その後、福岡県1位の千代中に勝利し、5位の出場権をかけ、鹿児島県1位の頴娃中と対戦。勝利することは出来ず、全国へあと1歩のところで終わった。
川原選手、宮崎選手は頴娃中戦を「県内では決まっていたスパイクが決まらなかったし、強かった。決めなければならないポイントを落としてしまっていた。」と振り返った。
佐賀県1位で九州中体連出場
バレーボールだけではない壁を経験した中学時代。小学生で出場できなかった九州大会に出場したものの全国まであと1歩だった。現在、佐賀商を引っ張る4人は、どうして佐賀商に入学したのか。続きは第3弾。明日公開。